テレビ塔で、アメリカ人の姿に身を硬くしていた彼女を思い出す。思わず笑みを零してしまう。
すべてが淡い夢のよう。たとえ夢であったとしても、いつかは掴む事のできる現実なのだと、信じて疑わなかった。どこから狂ってしまったのか。
結局、霞流が経営する工場では、労働組合は作られなかった。だが工員から賃上げやら環境改善の要求が出され、時代の波に押されるようにいくつかの要求は受け入れた。高度経済成長と言われる波に乗って、会社は大きくなった。親の決めた許婚とはうまくはいかなかったが、別の女性と引き合わされ、結婚した。息子が産まれ、やがて会社を譲った。
時が経った。もうずいぶんと長い時間が、二人の間には流れてしまった。それはまるで、織姫と彦星の間に流れる天の川。その川を渡って二人が巡り合う事は、もう無い。
公園を横切るようにして少年が駆けていく。その青い野球帽姿に、栄一郎は瞳を細めた。
「そういえば、あの年」
早苗と出会い、そして別れたあの年。
「あの年、ドラゴンズが優勝したんだったなぁ」
サードのグローブにボールが収まる。ラジオからワッと歓声があがる。地鳴りのように周囲に響く。
チームにとっては初のリーグ優勝だった。西鉄との日本シリーズは第七戦までもつれた。最終戦は確か日曜日だったはずだ。多くの人がテレビやラジオの前で大声をあげた。日本一になり、大須はお祭り騒ぎで大変だった。翌日、神社の境内で、野球にはあまり興味のない早苗を前に、興奮しながら一方的に捲くし立てていたのを思い出す。そんな栄一郎の姿に早苗は呆れたような顔をしながらも、楽しそうに黙って話を聞いてくれていた。先輩から暴行を受けているという話を聞いたのは、確かそれから数日後の事だったはずだ。
そういえばあの年は、アメリカの女優が来日したんだったかな? 確かマリリンなんとか、だったか。そちらの方は逆に早苗が熱をあげていて、自分にはさっぱり理解できない熱狂だったな。
一年にも満たない思い出が、溢れ出す。
「そうか、亡くなられたのか」
目を閉じると、今でも鮮やかに甦る。みかん箱に片足を乗せて、ふてぶてしく自分を睨みつけてくる、織姫の姿が。
早苗さんは高千穂ではどのような暮らしをしていたのかと聞かれ、瑠駆真は何も答えれられなかった。栄一郎はあれこれとしつこく聞くような事はしなかったが、聞きたそうにしているのはヒシヒシと伝わった。だから、今度親戚にでも聞いてみますと伝え、ようやくその場を離れた。
祖母。
ほとんどその存在すら忘れていた。居た事すら忘れていたくらいだ。
祖母にそんなセピア色の思い出があったのか。
だが瑠駆真は、いまいち感動することができない。明らかに泣く事を強制された悲恋を題材にした映画でも見せられたかのよう。どことなくシラけてしまう。どのような顔立ちだったのかもほとんど覚えていないような相手など、テレビや映画やマンガの中に登場してくる架空の人間にしか思えない。本当に居たとすら思えないくらいだ。まさか母にとってもそのような存在だったとは思えないのだが。
ならばなぜ、母は自分を連れて高千穂へ帰る事を控えたのだろうか?
控えたのだろうか? それとも、避けたのだろうか?
避けた? 誰を? 何を?
母と祖母は、不仲だったのだろうか? 母が生きていれば、聞けたのかもしれないが。
そこで瞬く。
母が生きていたらだって? 冗談じゃない。あんなヤツ、生きていたところで何の利益もありはしない。少なくとも自分にとっては不愉快な存在でしかない。
母と祖母の関係を知ったところで、何の得になるというんだ。僕には関係の無い話じゃないか。
そうだ、僕には何の意味もない。僕に必要なのは母でも祖母でもない。
どうしてこうなった?
そもそも、あんな話を聞くために霞流の家へ行ったワケではない。僕は美鶴の居場所が知りたくて。
だが、どうやら富丘の家には匿われてはいないようだ。
ひょっとして、霞流慎二の手によってどこか別の場所に姿を隠しているとか。
目の前に金糸が舞う。
今、この瞬間、ひょっとしたら美鶴は彼の腕の中にいるのかもしれない。
冬の朝、指先が悴み吐く息が白く凍りそうなほどの寒さの中で、美鶴のマンションで見せつけられた光景が甦る。あの時、美鶴を押し倒していたのは聡だった。その姿が、瑠駆真の頭の中で、ゆっくりと霞流慎二に摩り替わる。
「やめてくれっ」
掠れる声。すれ違う女性の視線を意識する余裕も無い。
美鶴、どこまで僕を苦しめるんだ? こうやって逃げまわっていれば、いずれは僕が諦めて退散するとでも思っているのか。
どうしてこんな事になった? どうして? 僕が美鶴の部屋に押しかけたからか? だってそれは、美鶴が僕と一緒にラテフィルへ来てくれないから。いや、別に僕はラテフィルへ行きたいワケじゃない。ただ美鶴と一緒に居ることができればどこだって構わないんだ。ただ。
唇を噛み締める。
美鶴がラテフィルへ行きたがらないのは、日本を離れたくはないからだ。それは、霞流慎二から離れたくないから。
美鶴、どうして君はあんな男なんかに。奴は君の恋心を校内に広めて君を嗤い者にしたんだぞ。
ふと、顔を上げる。下を向いていた事には気付かなかった。
そういえば、噂を実際に広めたのは霞流じゃないはずだ。美鶴の話では、それは女性。
金本緩。
彼女だという確証はない。だが。
瞳を揺らす。
確かめなければならないとは思いながらも、そうできないまま。
だって、今はそれどころじゃない。
そうだよ、今はそれどころではないのだ。あの噂を広めたのが金本緩かどうかなんて、今はそんな事はどうだっていい。それよりも今は美鶴だ。今はなにより、美鶴の所在を突き止める事が先決なんだ。
立ち止まる。瞬く瞳をゆっくりと揺らす。それは、世の中のすべてを吸い込むほどの宇宙の深遠。仄暗く、だが熱く、激しく、少しだけ甘い。
残念だね。僕は退いたりなんてしないよ。
寸刻前に別れた老人は、離れていった女性を追いかける事はしなかった。ただ想い出を抱いたまま老いを迎え、しみじみと浸っている。
祖母にも、あの栄一郎という人にも悪いけど、別れた二人が正しかっただなんて、僕は思わないよ。確かにそれは美しい思い出かもしれないけれど、それはただ美しいだけの思い出にすぎない。僕はそんな思い出だけで満足するような、無理矢理に自分を納得させるような人間にはなりたくはないんだ。
僕は、そうはならない。美鶴と離れて時に流されるだけの存在になるなんて。
それはまるで、かつての自分。周囲に反感を抱きながらも、何もできなかった頃の、情けない自分。
もう、そんな自分には戻らない。
右手の拳を握り締める。
必ず美鶴を、この手に入れる。だって、僕には君だけなんだから。
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